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大崎市古川荒谷 稲荷神社(斗瑩稲荷神社)とっけさま

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ざっくり言うと、この記事のもくじは以下のとおりです。

写真撮ってきました。2016年1月3日撮影

 

主祭神・由緒ー宮城県神社庁データベースよりー

宇迦之御魂大神

由緒 宮城県神社庁 || 神社検索 || より

宮城県古川市荒谷に鎮座する斗瑩稲荷神社(とけいいなりじんじゃ)の御祭神は、宇迦之御魂大神、豊受比売大神、武甕槌命、三柱を祭神とする。御神徳の広大なると共にその御名も種々称し、古くから稲荷信仰の霊山として、又正一位稲荷大明神として崇敬されてきた。一説の社伝によると、文治3年(1187年)後鳥羽帝の御代、源義経は頼朝の勘気を受け奥州平泉へ下向の際、北陸路を通り鳴子を経て荒谷は斗瑩山に到着した。吉野の山によく似たこの山で暫く滞留する。その後平泉へ着き、義経公最期を迎える折、「功成り名挙げ 身退く 天の道なり 故に汝が辛労する事なかれ 我今 兄右大將の旨を重んじ 泰衡が家を去り 自身を退くなり 我と汝と君臣の道厚く 誠に汝が術を盡して我を守護し 難を救ふ事の忠義を盡せし事何を以てか報ぜん 何か賞を与へん 我流浪の身にして空しく汝と相別るヾ事 腸を断にしのびず 汝は斗瑩山にて本身を顕(あら)はして國家を守護すべし」その後、斗瑩山に戻った白狐は、その地の和尚、傑僧良雲法師に「我は江州栗本郡多賀に社内に住居たる白狐なりしが義経吉野山に身を寄せられし折から守護し奉りて奥州まで御供仕て下向するなり 猶(なお)義経公難事を救ひ 忠臣忠信の志を慕ひ 我また身を変し左衛門尉四郎忠信と名乗り 義経公の先途を立て 是迠下向するなり 然れども義経公運命薄してはかなく東夷に身を忍せ候ふ 我永く義経公の先途を守護し奉らん 爰(ここ)以て我を稲荷明神と祭り候はじ永く山門の繁昌を守護し國家の泰平を守護し 尚 五穀成就 海上安全魚漁を守護し 或は鬮(くじ)[俗に無○会頼母子なり]當り 女人安産 又無実の刑罪、剱難 諸人の危難を防ぎ 賊難を除き 諸人一代の中に何程の大願にても三度までは成就させしむ。亦何程の大難にても三度までは救い候ふと誓請に此度栗原郡と云はがもとの栖の栗本に名も似たり 又我母のなきがらを以 造りし鼓を義経公より賜はりし故に我が身にまとひ是まで来る也 願ば此處に母のなきがらを収めて永く守護奉らん 依て先に誓を立つる所 疑ふ事なかれ」といい忽ち金色の狐に姿を変え、岩穴へ姿を隠した。その後和尚は一宇を建立して「左衛門四郎稲荷大明神」と崇敬した。その岩穴は現在でも残っている。先年社務所新築の折発見された約500年前の古い巻物を読んだところ、その内容は言い伝えと同じ内容であった。当時からこの伝説が言い伝えられてきた証となる貴重な資料である。その後、全国より多くの崇敬集め、応永30年(1423年)大崎左京大夫持栓が社殿を造営し小野城の守護としたが、永正13年(1516年)野火により社殿が焼失。永禄5年(1562年)光明寺開基である異庵全秀大和尚が伏見の稲荷山より勧誘、合祀し再建後伊達政宗岩出山町城に移るや太刀一振を献じて、以来館主の崇敬が厚かった。寛永年間正一位の称号を賜わり、遠近の信仰を集めている。明治43年3月、鹿島神社を合祀致した。

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正一位 斗瑩稲荷神社

幕末の剣聖千葉周作は、少年時代を当時は栗原郡荒谷村であった大崎市古川荒谷に鎮座する荒谷明神(斗瑩稲荷神社)で過ごしました。その幼名を於菟松といい、5才頃、父幸右ェ門に伴って陸前高田より斗瑩稲荷神社下に居を構えました。

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千葉周作について 正一位 斗瑩稲荷神社

斗瑩稲荷神社までのアクセス GoogleMapへ

 

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